Les Films            de la Colombe d'Or       白鳩が金の鳩に輝き大空を舞うように、映像を語る!  ーコロンブドールー      L'information&La note


by Colombedor

元朝フビライの日本招諭・文永の役まで(私Memo)

 私個人で、どこでもネットで参照できるようにMemo書きしたものですから、
歴史教科書には参考になりませんので悪しからず!!
しかし雑学にはなるかもしれませんが・・・・・? 参考まで。


1231年   元に攻められた高麗は降伏し、属国となった。
        これにより高麗は元に美女を献じるようになる

この頃 安房の海民の家に生まれた日蓮上人は九歳の時、
         高麗が元に攻められたことを同じ海民から教えられたという。
   このように元の脅威は海民を通じて日本各地に伝えられていた。


1234年  朝鮮で金属活字で印刷された「詳定古今礼文」が編纂。
       金属活字での印刷は世界初である。

       大汗(ハーン)フビライ(忽必烈)に、
       壮大な「日本征服」計画を吹き込む一人の高麗人 趙彝(チョー・イ)。



1261年  モゴルは定住農耕地域の南宋に宣戦

1266年 文永3年  
  8月    第一次日本招諭
        モンゴルは日本へ使者を送って自己の陣営に引きこむ計画に
        着手「日本招諭」日本招諭の趣旨は、和好を結んで親睦しようという
        やわらかいものでしたが、
       「兵を用うるに至りては ,それたれか好む所ならん」という脅し文句も
       忘れていま せん。
      フビライは、使者を日本へ導くよう高麗に命じ、使者の黒的(こくてき)には
      「 風濤の険阻をもって辞(いいわけ)となすなかれ」とクギを刺していました。

 12月   黒的は朝鮮半島南辺の巨済島(コジェド)に至りましたが、
       高麗の先導役と黒的は共に対馬の方を望み
       先導役は風涛の猛威・対馬島民の野蛮で無礼な行動などの不安を述べた。
       黒的は「遙かに対馬(つしま)島を望むに、大洋万里、風濤天を蹴るを見」と
       意気沮喪して引き返しました。
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高麗は日本がこのような要求を飲むはずもなく、
       また、戦いともなれば高麗軍がまっさきに 海を渡ることを
       命じられていることがわかっていたので、高麗は宮廷を訪れていた
       元の使者を冬の荒れ狂う日本海に案内し、これに納得した元の使者は
       渡海できないことをフビライに 報告しました。
       しかし、このことにフビライは烈火のごとく怒り、高麗に対して国書を
       送る よう厳命したため、やむなく文永5(1268)年1月、
       高麗はフビライの国書を太宰府に届けました
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
     
      モンゴルと日本が戦争になることを望まない
      高麗の宰相李蔵用(イジャンヨン)が、黒的と示し合わせて打った
      大芝居でしたが、フビライは激怒して、今度は高麗の責任で
      日本と交渉せよと命じます。
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1267年  
        第二次日本招諭 日本へ使者を送る

  翌年末  元の使者が高麗に派遣され、そこで、遂に高麗の使者 潘阜(ハンプ)が
        元と高麗から元皇帝の属国になるよう促す国書を持参し、
        対馬から博多から太宰府へとやって来ました。


1268年  高麗使潘阜(ハンプ)は大宰府に到着し、ここではじめて日本は
       モンゴルの意図を1月 知りました。
 文永5年  筑前守護少弐資能すけよしは、国書を四十日後に鎌倉に送りましたが、
         国書は四十日後に鎌倉に届けられ更にその一月後に幕府は京都朝廷に
         奏上した
閏1月8日 鎌倉に到着し,更にその一月後に幕府から朝廷に奏上される。
   朝廷では連日評定(ひようじよう)の結果,
         「返牒あるべからず」と議決、黙殺
         返書を送らないことに決め,
   諸社寺に異国降伏の祈祷を命じる。

            「上天眷命
       大蒙古国皇帝,奉書
        日本国王,朕惟自古小国之君,
          境土相接,尚務講信修睦」

3月5日 老齢の北条政村(まさむら)(64)に代えて
   弱冠18歳の時宗(ときむね)を執権
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         国書の宛名には「日本国王」と書かれていたため、朝廷にも意見を
  求めましたが、朝廷でも幕府と同じく「返蝶あるべからず
   (返書は出すべきではない)」という決定がなされたために、
    高麗の使者は空しく帰っていきました。
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
       第三次日本招諭 蒙使黒的ら?を日本へ導くが、
       三回目の使者は対馬まで行って引き返しました。

1269年  
       第四次日本招諭 蒙使を日本に導き
  2月   蒙古の使臣団が対馬島に到着したとき、日本側が武力で応じたことを
       寛大に受け入れながらも、この過程で捕まえた日本人2人を送還することを
       通告した。

       蒙古国中書省の牒は、この時期前後に日本に送られた
クビライの国書に近いレベルで穏健な文面になっているが、
これより3年前クビライが日本を招諭するために発給した国書の内容より、
具体的に闡明すると同時に若干の脅迫性を持っている

       慶尚道按察使の牒により、高麗が友好的な関係にある日本に
蒙古の使臣団を案内することになったのは蒙古の圧迫によりやむを
得ないことを示しながら、黒的・殷弘らによって逮捕された倭人2名を
送還するとの事実を通告したのであ。

      (三月?蒙使が七十七余名の従者を連れ対馬に来たが
押し問答の末に帰国した?)

   (秋 ?  その秋対馬を経て太宰府に到着、蒙古中書省の牒を示した。
       朝廷は「日本は神国ゆえ蒙帝の威嚇に屈せず」と拒絶の返書を作ったが、
       幕府は「牒状の文意無礼なり」と使者を帰らせ
       朝廷から送付の返書草案は握り潰した)


        (四回目は、国書を日本側にわたすことには成功しましたが、
          朝廷が出そうとした返書を幕府がにぎりつぶしてしまいます↓)

1270年 文永七年
  正月   正月付けの文書案作成し朝廷は元へ返牒を送ろうとするが、
        これを幕府が抑え        る。
       文書案は、武力を背にしての交渉であることを痛烈に指摘
       返書のことは、衆庶の知ることとなり、京都のある僧などは、
       返書が撤回されるように神仏に六十日間熱烈に祈願した

 12月   趙良弼(チョリャンピル)が日本国信使に任命される

1271年 文永8年 
  正月   日本招諭使趙良弼は正月初頭に高麗・開京にきて、
        かれを護衛する蒙古軍も出動していた。
        しかし招諭使は日本へ渡れなかった。
        それは三別抄が朝鮮南部を制圧していたからである。

 3~4月頃 三別抄が珍島から日本に使者を送り、援軍と兵糧を求めた

 9月19日   五回目の使者が有名な女真人・趙良弼(チョリヤンピル)で、
       今度も朝廷は返書を送る決定をしまし
       たが、またも幕府の反対でとりやめになりました。
       朝廷は急いで伊勢に勅使を派遣し、神々に異国降伏を祈った。

       9月19日に、返書を求めて来日した蒙古の国使趙良弼は、
       そのまま1年以上日本に滞在し、つぶさに太宰府付近の地理を
       観察したり国政や風俗について調査している。

 11月   五代皇帝フビライが国号を大元と定める

1272年  高麗国王忠烈はフビライに日本を攻め、属国にすべしと進言を行う。
 3月    忠烈の正妃は元の皇女 (自ら元の習俗、制度を取り入れている)
       フビライは開戦を決意

       (去歳九月
       趙良弼は、張鐸にその二十六人の日本使を京(蒙古朝廷の都)に送らせた。
       フビライは、その国使を疑い、大宰府西守護所の偽りであると言った。
                       『元史日本伝(1272年2月条)』
 


1274年 文永十一年
  正月   蒙古は高麗に対し、日本侵攻のために戦艦建造を命じた。
       高麗側では、蛮用(南宋様式)では手間もかかり期日に
間に合わないので、わが 国の様式にしたとある
       蒙古・漢(女真族)軍2万5千、高麗軍8千、水夫6千7百が乗る船

 10月5日 九百艘三万人からなる元・高麗の大軍が対馬を攻撃

   20日 博多まで攻め落としている。

   21日 船に戻り、撤退している。



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六六年より、モンゴルは日本へ使者を送って自己の陣営に引きこむ計画に着手しました。
これを「日本招諭」と呼んでいます。

 これら一連のできごとは、南宋に照準を定め、これを北および東西から包囲するという綿密な戦略にもとづくものでした。そして一二六八年、モンゴル軍は長江の支流漢水(かんすい)に臨む湖北省の要害の地、襄陽(じょうよう)を包囲しました。ここを南宋が守りぬくか、モンゴルが陥落させるかに、戦争全体のゆくえを決めてしまうはどの重みがかかることになります。

 日本招諭の趣旨は、和好を結んで親睦しようというやわらかいものでしたが、「兵を用うるに至りては、それたれか好む所ならん」という脅し文句も忘れていません。フビライは、使者を日本へ導くよう高麗に命じ、使者の黒的(こくてき)には「風濤の険阻をもって辞(いいわけ)となすなかれ」とクギを刺していました。

 黒的は朝鮮半島南辺の巨済島(コジェド)に至りましたが、「遙かに対馬(つしま)島を望むに、大洋万里、風濤天を蹴るを見」、意気沮喪して引き返しました。モンゴルと日本が戦争になることを望まない高麗の宰相李蔵用(イジャンヨン)が、黒的と示し合わせて打った大芝居でしたが、フビライは激怒して、今度は高麗の責任で日本と交渉せよと命じます。

 高麗使潘阜(ハンプ)は一二六八年に大宰府に到着し、ここではじめて日本はモンゴルの意図を知りました。三回目の使者は対馬まで行って引き返しました。四回目は、国書を日本側にわたすことには成功しましたが、朝廷が出そうとした返書を幕府がにぎりつぶしてしまいます。七一年に来た五回目の使者が有名な趙良弼(チョリヤンピル)で、今度も朝廷は返書を送る決定をしましたが、またも幕府の反対でとりやめになりました。

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フビライは1266年に「日本国王」に宛てた国書において「ねがわくは、自今以往、問を通じ、好を結び、もって相親睦せんことを。かつ聖人は海をもって家となす。相通行せざるは、あに一家の理ならんや。もって兵を用うる至りては、たれか好むところならん」と書いてよこした。いわゆる蒙古国牒状である(写本が東大寺に現存)。


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「日本征服」計画に乗った忽必烈は、文永4(1267)年を皮切りに、以後14回(蒙古が8回、高麗が6回)にわたって、招諭使(使節)を日本へ派遣して来ました。

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上記新しい試みをTRY!!



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by Colombedor | 2005-01-18 00:46 | des Notes